物語の生まれ方

2022年02月04日 20:20

去年の秋に、以前絵に描いた場所を見に行った。
行ったといっても自宅と会社の途中にあって車で5分も走れば着く場所なのだが、いつも通る道から脇に入った集落の中にあるので、あえて「行こう」と思わないと通らない。

それは紅葉も終わる頃でそろそろ雪の予報が出そうな週末だったから、色に溢れた景色が雪に埋もれる前に写真を撮っておこうと思った。
その場所は石垣に囲まれた広い敷地の屋敷跡で、敷地内には母屋と小さな小屋と倉などがあって、敷地の周りを大きな杉が取り囲んでいた。
春先、その小屋から母屋に続く道に生えた草たちと横に立つカエデの木の若葉に西日が差している光景を描いて、初めて南魚沼美術展に出品して賞をもらった。

実は賞をもらって少し経った頃に、その場所の前を通ったら、敷地を囲んでいた杉の木がほとんど伐られて無くなっていた。
雰囲気が一変していてショックだったので、それ以来行かなかったのである。
自分の絵の中のカエデの木も伐られて無くなったと思ったのだが、今回行ってみたら、伐られていたのは杉の木だけで、カエデはちゃんと有った。


「あるじゃん!」と思ってびっくりしたのだが、私の絵に描いた木が描いた後に伐られて消滅するというジンクスというか呪いのようなものがあると私は思い込んでいたのだ。

実際に、描いた後に伐られた木もあるのだけど、「私が描くと木が消える現象」は完全に私の思い込みだったと判明した。
しかし「描いたものが消える現象」という思い込みを得たお陰で、その後に描いた絵に何かしらの影響があったのも事実である。

それで結局なにが言いたいかというと、人の人生の営みには多かれ少なかれ「物語」が影響している訳だが、その「物語」はこうした思い込みや思い違いから発生して、我々の意識を目に見えない何かで支配しているんだな、という事なのだ。

例えば誰かを強烈に好きになるとか嫌いになるとか。
運動が苦手だと思うとか、絵を描くのが得意と思うとか、そんな事だってある時なにかのきっかけで自分の中に「物語」が生まれ、その筋書きに誑かされて我々は生きているのかも知れない。

私の絵が、消えゆくもの達からのメッセージを感知して描いた「予言」だという物語も、そんな勘違いの賜物なのだが、この世界に存在するものは全ていつかは消えてゆくのだから、私の絵には予言が込められているのは間違いではないだろう。

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